カリフォルニア州で公式認可・登録されているスピリチュアルスクール ワンネスインスティテュート[東京・千葉] Spiritual School officially chartered and registered in California, US
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  ワンネスインスティテュートについて      
スクール・ミニストリー概要
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ミッションと活動品目
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すべての活動の基礎にある意識
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講師REMIのプロフィール
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講師REMIのマイストーリー
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米国UCCスクール・オブ・スピリチュアリズム
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REMIのマイストーリー


スピリチュアリティ探求の道のり
  
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これまで「何がきっかけでこの世界(スピリチュアリティ探求の道)に入ったのですか」といった質問をたくさんいただいてきました。
数年前きっかけをまとめようとしたときに、人生で経験してきたあらゆる要素が現在の道につながっていて、それを説明しようとすると長くなりすぎてしまうので、どうしようかな、と躊躇していました。REMI2012年の初めに半分まで書いてそのままになっておりましたが、何もないよりは半分でもあったほうがよいというご意見もいただきましたので、私自身の話で、長くなりますが、ご興味のある方はお読みになってみてください。
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ちょこっと家族のバックグラウンドから 
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母方の曾祖父は大きな家の長男で、医者か政治家にという教育を受けていたそうです。曾祖父が総理府統計局の仕事で東京の教会に調査に訪れたときに、北海道の樺太出身で上野の音楽学校に通っていたクリスチャンの曾祖母に出会ったことがきっかけで、曾祖父はその後、東京の神学校に通い、英国国教会の牧師司祭として函館の教会に赴任しました。英国本国からの機関誌や書籍を日本語に翻訳するというのと、郵便局の中で成人学校を教えることが主な収入源で、出世も辞退して、教会からのお給料は貰わないと決めていたそうです。医者か政治家にという方針の家系だったため、牧師司祭という仕事についたことで両親から勘当されたのですが、曾祖母との間に長男が生まれたことで勘当を解かれ、晴れてもろもろ相続したそうです。しかし、お墓だけ守ってもらうことを約束に、相続した代々の財産をお手伝いの番頭さんにあげて、家系図も燃やしてしまったそうです。曾祖父は非常に自由な思想の持ち主らしく、さまざまな思想や派の人たちとのつきあいがあったそうで、戦時中は英米のスパイと疑われ何度か拘束されたりしながら、毎回無事に釈放されてきたそうです。

母はそんな曾祖父のいる函館の教会の牧師館で、曾祖父母や叔父叔母に囲まれ育てられましたが、中学生のころ両親のいる東京にやってきました。母と父は学生時代に出会い、父の卒業と同時に結婚しました。新婚旅行にタヒチに行ったとき、「そんなはずじゃなかった」けれど私が出来てしまったそうで、そんなわけで私は「ハネムーンベビー」として(?)生まれました。両親は非常にリベラルな価値観の持ち主で、あらゆる封建的な制度や思想、宗教的・慣習的な行事をきらいました。そのため、私自身はお盆行事、お正月、初詣やお宮参りも、お祈りなど、宗教的・信仰的な習慣がほとんどない家庭環境で育ちました(クリスマスに友達を呼んでのホームパーティだけは欠かさないのですが)。祖父母とも頻繁に行き来があり、友人も多い両親で、両親の学生時代の友達や、海外からの留学生や仕事で日本に滞在している外国人たちが、家に遊びに来たり、ご飯を食べに来たり、なかには2カ月近く滞在する人などもいて、私は小さな頃から種々多様な大勢の大人に囲まれて育ちました。

本当は生物・化学の分野を学びたかった父でしたが、大学の農学部を卒業し、小さな造園・ガーデニングの会社を始めてから、お客さん、パートさんや社員さんや職人さん、経営者の人たちなどさらにさまざまな付き合いや交流が始まりました。父が目指したのはイギリスの庭や日本にもともとある里山を理想とする自然の庭だったため、当時は図書館に行って造園やランドスケープ関連の洋書とくびっぴきになって、自分なりに勉強したそうです。父は自然、化学、文学や詩、いろんなジャンルの音楽、歴史に興味があり、私が草花木の名前をよく知っていたり、自然に興味を持ったり、ハーブやハーブティを飲むようになったのも父の影響です(最初はハーブティっておいしいだろう〜と言われて正直「??」でしたが、父が生えているハーブを指で軽くこすっては、香りをかがせてくれるので、私もハーブを見ると葉っぱを擦って香りを嗅ぐのが癖になりました)。母も父も同じく昔から本の虫で、母はSF、心理、社会、絵、歴史、ビートルズとクラシック音楽などの分野が興味の対象であったようです。両親が若かった頃は会話が深夜に及ぶこともよくありました。

二人とも非常なディスカッション好きというか、熱く語り合う人たちで、家族でだけでなく、友達も含めて、いろいろな「議論」が盛んにかわされていました。そんな両親でしたので、子供のころから、両親の仕事、興味や趣味の話題を共有するのは自然なことでした。ニュースや、最近読んだ本、最近聞いた音楽、思いついたり感じたこと、仕事のことなど、なんであれ「自分はこう思う。お前はどう思う?」「最近はこの曲が好きで、練習している。いい曲だろう」「仕事でこういうことをしてみた。どう思う?」などとしょっちゅう聞かれたり、どう思うか、どう感じるか、伝えることを求められてきました。家では、子供も一人の人として自分の考えをや意見を持つことを求められ、あらゆる話題について考えたり感じたことを話しあうことは、家族の日常でした。

幼稚園  
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さて、私自身についてお話していきたいと思います。はじめて霊的なビジョンを体験したのは幼稚園の帰りのことでした。車の中から、露店の八百屋さんで買い物をする、母やお母さんたちをぼうっと眺めていたときのことです。その景色を眺めていると、買い物をするお母さんたちの姿が、皆々すうっと、同じ姿形の”白い人たち”に変わりました。そしてその”白い人たち”の前に、それぞれ、白い道が浮かび上がり、伸びていきました。それらのたくさんの白い道は「人々の人生という旅路」を意味しており、あるところで交差しているもの、しばらく並行に行くものも、まったく交差しないものもありました。人生という旅路の途上、出会う人もいれば、しばらく一緒に進む人もいれば、全く出会うことのない人々もいる---。ひとりひとりの前に、人生という道はそれぞれ独自のものとして存在していながら、互いに関わり合っているのだ、ということが分かりました。この場面はいつも、車の中から人々を眺める自分の背中を見ている視点で、思いだされます。そしてこのビジョンを見た記憶を思い出したのは20歳の年でした。

私は、20歳になったとき母が「20歳になるまで生きてくれるなんて。感動です。」と手紙をくれたほど、とにかく病気やけがが多く、病院通いの多い子供でした。社会人になっても、インフルエンザはもちろん、普通は成人になるとかかりづらいはずの肺炎にかかることもありました。あんまり体が病弱なため、幼稚園の頃は、鍼灸師さんが家に来てくれていて、母や母の友人と一緒に、私も抵抗力や体力をつけるための中国鍼の施術を受けていました。父の友達には医師も多かったので、急な症状のときには友達が注射器や薬を持って駆け付けてくれたこともあったそうです。

幼稚園に通っている頃のことですが、脳波の異常が見つかりました。小学校卒業まで毎日薬を飲み続け、定期的に脳波の検査を受けていましたが、結局病名がつかず「脳波の異常」とされました。脳波の検査では、検査室のベッドに横になり、長い時間をかけて頭にたくさんのコードがつけられていくのですが、それが済んでからようやくガラスで仕切られた部屋で検査が始まります。ブラインドで日光を遮断したほの暗い部屋の中で「はい、目を瞑って。点滅する光に合わせて、息を吸って、吐いて〜」と、眠気を誘う誘導。目を瞑ったらどうやっても寝てしまう環境ですが、眠りに入ろうとすると私の脳波が変わるのでわかるのでしょう「レミちゃん、寝ないでね、もうちょっと頑張ってね〜」と起こされるのでした。いま思うと、このころ「目を瞑りながら、眠らず、意識を呼吸や光に集中する」という瞑想に必須のワザ?を訓練をしていたのかもしれません…。(のちに脳波の異常のことをDr.マーガレットに話すと「あなたの場合、サイキックすぎたのね」とのこと..。)

スピリチュアリティやヒーリングの勉強を始める20代後半までは、しょっちゅう病院や整骨院やらにお世話になっていましたので、いま仕事でセラピーやカウンセリングをしていることも、今、抵抗力をつけ免疫力をあげたりしながらほとんどのことは自然療法、セルフケアや対処をして済んでいることにも、私のために病院通いをした母が、いちばん驚いているかもしれません。最初は「おもしろいわね、私もエスパーになりたかったのよ、昔」と言いながらも、娘がこのような分野の勉強を始めたことで多少心配していたようです。夫が100%応援していることが分かったり、セラピーの効果を実感したり、現実的な変化を目にしたり、さまざまな出来事が起きて、いまは「家族にひとりこういう職業の人がいてくれると本当に助かるわね。本当におかげさまで生きていられると思っているのよ」と言って、私の仕事を心から応援してくれています。

2歳の頃のことだそうですが、夜、締め切っている窓から、「虫が入ってくる!」と言って大騒ぎして寝られないことがありました。両親が何度「窓は閉まっているから大丈夫」といってもだめだったそうです。昼間に散歩にいって木の葉の影が揺れると、突然足がすくんだように、その場にしゃがみこんで、一歩も動けなくなってしまったそうです。母が「2歳でこの様子は尋常じゃない。医者に見せなくちゃ」と病院に連れて行ったそうですが、興奮してしまい、検査をするにも鎮静剤も効かず、結局何もできずに帰宅したと聞いています。この幼いころの恐怖症の一件もDr.マーガレットに話すと「私も幼いころに同じようなことがあったわ。宇宙人がね…」という話になり、自身のさまざまな記憶と併せて、そのころなにが起きていたのかを(科学的な証明はできませんが)理解したこともありました。母によると、私は誰もいないはずのトイレで、いつも誰かとおしゃべりをしていて、母の友達がよく「誰かいるんじゃない。見てきたほうがいいわよ」と言うので母が見に行くと、やはり誰もいない。でも、私がトイレにいるときはやっぱり誰かとおしゃべりしていたそうです。

同じく幼稚園の頃のことですが、寝るときに頭の中で血管を血液が流れるようなシュッシュッドッドという音が聞こえるときに、決まって見る夢がありました。寝入りばなにその音が聞こえてくると、夢の中でその音はいつのまにか機関車の音に変わっていて、ほどなくして丘の尾根を大きな蒸気機関車が走ってくるのが見えてきました。客車には自分が知っている男の子が乗っていて、私は急いで丘を駆け上がって、目の前を通り過ぎる機関車を父と二人で見送っています。機関車の鋭く重い音は、避けられない出来事が音をたててやってくるようでした。5歳くらいの私が「行っちゃった。もう会えないの?」と聞くと、父は「もう会えないんだよ」となだめるように言います。いつも蒸気機関車がやってくる場面で始まり、この会話の場面で終わるのですが、機関車の音は重く大きくて少し怖い感じで、全体を通してなんとも言えない寂しさがあって、しかも意味も分からない夢。というわけで、できるだけこの夢を見たくない、頭の中のあの音が聞こえませんように、と思っていました。


小学校時代 
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今でも鮮明に覚えているのですが、私は、小学校1年生のとき、教室でランドセルが乱暴に投げられたり踏まれたりするのを見て「ランドセルがかわいそう!なんてひどいことをする人がいるんだろう」とショックで涙ぐむような、過度に敏感な子供でした。また、”大きな客船に乗っているときに、もしその船が沈みそうになったらね...”などという話を突然始めて、母の友達に「変なこと言う子ね」などと笑われたこともありました。また、6年生くらいだったでしょうか。いとこと遊ぶ約束をしていた春の日、5時間ほど待ちぼうけしたこともありました。桜が満開の日、暖かい風が吹く度に、桜の花吹雪が降り注いでいる…しかも桜並木の下には自分以外に誰もいない、このうえなく気持ちのいい日だったので、私にとっては待つのが苦にならなかったのでした。帰宅後知ったところでは、いとこは家族で旅行に行ってしまっていたそうで、母親が「失礼にもほどがある!あなたはそういうときにどうして怒らないの!」と怒っていたのをよく覚えています。なぜか幼稚園のころから、友達にしろ親戚にしろ、何時間も待たされることが多くありました。小学生のとき、上履きにがびょうが入っていたことがありました。私はちょっと変わった子供であったようで、なぜそのようにしてしまったのかということを自然と理解でき、けがをしなかったこともあり特段気にしていなかったのですが、親は私が怒りもせず、けがしなかったからといってのんびり構えていたことに、ちょっと腹を立てていたようでした。

両親が自然のあるところによく旅行で訪れるので、海山にたくさん連れていってもらいましたし、毎年、多いときは3回、市内の大学の教育学部生が引率する子供キャンプに参加して、春・夏は山や森の中でテントやバンガロー生活、冬は雪山でスキーのトレーニングと、長期の休みはだいたい自然の中で過ごしました。七夕で「将来なりたいものをお願いごとに書きましょう」というイベントがあったとき、小さいころから「なりたい職業」がどうしてもなく、この種の質問をされるといつも困っていたのですが、屋根の上でもどこへでも行きたいところへ軽々と飛んで行ける自由さから猫にあこがれていたので、正直に「猫になりたい」と書いて、周りの人に心配されたこともありました。学校の外に流れている川を眺めながら「自分は少数派で、これからもけっして多数派にはなれないのだろう」と感じていたこともよく覚えています。

ですが、5・6年生のときに素晴らしい先生に出会い、本当に貴重な教育を受けました。このころに経験したことは、どれも今の自分の基礎になっています。熱が出ても授業に出たくて、まるで自由研究のような宿題をやりたくて、先生から電話がかかってきて「休みなさい」と言われてようやくしぶしぶ休むことに納得したたほど、学校が楽しくて仕方がありませんでした。公立の学校でしたが、この先生との出会いがなかったら今の自分はない、と思えた、そんな素晴らしい先生でした。そのことをまた改めてどこかで書きたいと思っています。

中学から高校時代  
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中学が始まり、受験のための勉強が始まり、勉強が楽しくなくなってしまいました。2年生のときには運動部で椎間板を痛めてしまい、それ以来腰痛が持病になりました。この頃から、天体観察や地球環境について調べたり「自由研究」することが好きになりました。宇宙人が地球文明をもたらしたに違いないと思ったり、自分も他の惑星から来たのかもしれない、と寒空のした毛布にくるまって、星空を眺めたりしていました。テレビでアザラシが浜に打ち上げられ大量に死んでいるのが見つかったニュースや、実際に通学路の川にいくつもの魚が死んで浮かんでいるのを見て、涙が止まらなかったこともあります。このころよく戦争が始まる夢を繰り返し見ていたこともあって、このままでは温暖化と人口問題と資源の枯渇でいつか核戦争が起こり、本当に地球が壊滅するかも!と本気で心配していました。母なる地球このころ読んでいた本は、地球環境白書といった環境系の本、宇宙文明、ナスカやピラミッドなど超古代文明関連の本、外国の諜報部を舞台にした小説や、軍事サバイバルの本でした。

中学2年生のお正月休みのときのことです。お気に入りの和菓子を買おうとお年玉を持ってデパートに行ったときのこと。ふと本屋に行きたくなり、デパートの地下から高層階にある本屋に立ち寄ると、宇宙から見た地球の写真に、各国の宇宙飛行士の手記が添えられて編纂された、大きな写真集の“待望の日本語版“がちょうど発売され、店頭に並んでいるのが目に入りました。それは、「地球/母なる星」。中学生の私にとっては少々高価な本でしたが、お年玉を持っていたので気が大きくなっていたのでしょう、さっそく衝動買いをして、家に帰って読み始めました。宇宙飛行士の言葉ひとつひとつになぜだか深く共感し、宇宙から見た地球の姿に不思議な懐かしさと感動を覚え、涙ぐんだりしながら、時間を忘れて眺めていました。(この写真集はREMIのおすすめページで、お勧めしています)

中学3年生くらいになると理由のわからない症状で入院したり、学校をよく休んだりするようになりました。受験も、欠席日数が多かったせいか「合格確実」なはずの私立校も軒並み不合格という、ハードな時期を経験しました。私にとっては中学の3年間が「魂の暗黒時代」とも言えるような時代でした(体調も精神的にも)。しかしそんな時期も永遠には続きませんでした。中学卒業を控えたある日、「本当に地球が1999年に滅亡するとしてあと10年以上ある。それまで精一杯生きて、実際にどうなるかを見てみればいい」と突然、それまでのもやもやとしたものがふっきれたのです。(ですが、地球壊滅の可能性がこのころ実は絵空事ではなく充分に現実的であった、ということを数年前理解しました。)そして高校時代は、自分から望んだわけではないのですが生徒会活動にもかかわることになり、友達づきあいや恋愛などもして、若者らしく活発に過ごしました。高校卒業のときには「ようやく周りに合わせることなく、自分らしく生きられる」と、解放されたような自由な感覚を覚えています。

大学時代、イギリス旅行とサイキック体験のより日常的な始まり
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9596写真展20歳の年のことです。父が仕事を兼ねてイギリスに行くけれどもお前も一緒に行かないか、というので、ついていくことになりました。この旅行は、私にとって大きな契機となり、たくさんの贈り物を与えてくれました。

そのときのフライトは英国航空で成田からヒースローへ直通便、「シベリアンルート」を飛ぶというものでした。機内の小さな窓からは、眼下に広がるシベリアの真っ白い凍土が見られました(一面、白い地球!)。そしてその、白い弧を描いた地球の輪郭の外側を、ヴェールのようなほんの薄いエレクトリックブルーの大気の層が覆っているのが見え、さらに外側に広がるにつれ、そのヴェールも漆黒に近い宇宙のインディゴブルーに溶け込んでいるのが見えました。中学生のころお年玉で衝動買いした「母なる星 地球」の写真を眺めながら、いつか絶対見たいと思っていた「宇宙から見た地球」の景色そのもので、深く深く感動しました。

あまりの感動に、機内後方の窓(あの小さな窓です)にへばりついてその景色を眺めていると、キャビンアテンダントの男性が「大丈夫ですか?」と声をかけてきました。つたない英語で「大丈夫です、この景色がずっと見たかったんです。すばらしくって。地球にハローと言いたくて!」と懸命に説明しました。日本人の女の子のおそらくかなり意味不明な説明を忍耐強く聞いていた彼は、何度かにこやかにうなづき、なんと「機長がよいと言ったら、操縦室に案内してあげましょう。それまで、席でシートベルトをして待っていてください。OK?」と言いました。「ん?!ほんとかな?聞き間違いかな?」と「?」いっぱいの私でしたが、ひとまずおとなしく席へ戻り、彼は私が席についてシートベルトをするのを確認すると二階席へあがっていきました。

(スピリチュアルな、不思議な体験があるときの雰囲気というかバイブレーションは独特のものがあり、10年20年経っても、鮮明に思い出すことができるものです。このときの空気感や雰囲気もよく覚えていて、昨日のことのように思い出すことができます。)

機内のほとんどの人は、寝静まっていました。「そうは行っても、まさかそんなことにはならないかも。聞いてみたけどやっぱり駄目でした、と言われるかもしれないし。期待せずに待っていよう」と思いめぐらしていると、先ほどのキャビンアテンダントの男性が席の近くに来て、手招きしています。「いらっしゃい、機長がOKと言ったから」。え、え?ホントに?と驚きつつ、寝ている周りの乗客を起こさないよう通路に出て、彼の後について前方へ歩いて行き、螺旋状の階段で二階席へあがりました。ビジネスマンらしき人が一人だけ新聞を読んでいるゆったりと静かなファーストクラスのセクションを通り過ぎると、アテンダントの男性がカーテンを開けて、コックピットに入るよう促してくれました。いいのかしらと思いながら中に入ると、機長と副機長が振り返り、「やぁ、こんにちは!いらっしゃい!」と笑顔で歓迎してくれました。

彼らの気さくな歓迎にも驚きましたが、何より驚いたのは、たくさんある計器類(今の外気温はマイナス40℃でね!と機長は喜んでいろいろと説明してくれましたが...)ではなくて、コックピットから観る、壮大な、信じられないくらい美しい景色でした。左右・前方に大きく広がった、視界280度くらいはありそうな景色。さっきまで小さな窓にへばりついて、夢中になって眺め、感動していたその景色が、いまや一度に全部見切れない!!ほどパノラミックに広がっていたのです。

なんて、壮大な景色......!

中学生のとき「地球/母なる星」という本を衝動買いしてからというもの「”いつか宇宙からみた地球”の姿を見たい」と思っていたのですが、この景色を見て「夢かなったかも。この景色が見られたら、もう大満足!」と思えました。しばしばそういうときに限ってカメラを持っていくことすら忘れているものです(残念!...といっても安全のため写真は撮れなかったかもしれませんが)。機長さんに「いつもこの景色を見ているの?」と聞くと「YES」とほほ笑んでいました。この旅の始まりに受けた思いがけない歓待は、一生忘れないと思います。今は安全面の配慮から乗客をコックピットに案内することはないかもしれませんが、そのようなわけで、私は英国航空(ブリティッシュエアウェイズ)にはいつもいい印象を持っています。

さて、旅が始まってからも、いろいろなことがありました。父がロンドンでレンタカーを借り、巨石文明の遺産の一つ、ストーンヘンジに立ち寄り、その後コッツウォルズまで行くという道のり。旅程もすべて父が決めたので、私はただついていくだけです。ストーンヘンジの、他の場所とは明らかに異質な空気を体感したあと、グロスターという街に寄ってみることになりました。父が「街の中心に大聖堂とか教会がある。そういうふうにヨーロッパの町は創られているのさ。行ってみよう」と言い、大聖堂に立ち寄ることにしました。壮麗な礼拝堂を抜け、例のごとく父はスタスタと回廊も抜け、外へ出て行ってしまいます。私は父にかなり遅れて、ゴチック様式の白い回廊に足を踏み入れました。そこで、不思議なことが起こったのでした。白の回廊

私は、こんなに静かで美しい場所をゆっくり堪能せずに行ってしまうなんて、なんてもったいない!と思い、カメラのシャッターを切り、上を見上げました。その瞬間、圧倒的な、得も言われぬ感覚が湧きあがってきました。うまく説明できるか分かりませんが、覚えているのは、体が数メートル上まで伸びあがった感じがしたあと、自分が天井付近からその回廊を見下ろしていて、自分の身体感覚がなくなって自分とその場所が一体になってしまい、自分の中を気持ちよく風が吹いて行った感覚を驚くほど鮮明に感じた、ということでした。なんとも言いようのない、喜びのような、うっとりして嬉しい、最高の感覚でした。表現しがたいのですが、思い浮かぶ言葉は「法悦」といったところでしょうか。

この旅から、父の「押せばうつるカメラ」に白黒フィルムを入れて「写真を撮り」はじめたのですが、その記念すべき最初の”作品”が右の写真です。(骨は海にまいてくれ、が口癖の父は、自分の葬式の写真はこれにしてほしいそうです。真ん中に見えるのはスタスタと先に行く父の姿です。)

そのほかいろいろなところ(それについてはまたどこかで...)を旅して帰国した後、学校に戻ってから、自分の変化に気づきました。ふとした瞬間にインスピレーションや、ビジョンや、アイデアが、以前よりも頻繁に湧いてくるようになったのです。学校はとても自然の多い環境で、森だったところを切り拓いて建てられたせいか、素敵な大木がたくさんありました。一人で中庭の木の下にぼーっと座っている時や、ただ何も考えずに歩いている時、人はなぜ生きるのか、なぜ世界は存在するのか、すべての背後にある理とは何か?それらの問いが浮かんできて、しばらくして突然、それらの問いに対する答えやビジョンが、素晴らしい感覚や喜び、感動とともにやってきて、圧倒される、という経験が頻繁におこるようになりました。

その頃は湾岸戦争の後で、地下鉄サリン事件も起きた後というタイミングだったこともあり、一方で自分自身がイギリスの大聖堂で経験した不思議な感覚と感動が刺激となって、「宗教とは何か?信仰とは何か?何が人を駆り立てるのか?」という問いが浮かびました。すると、数千年前の砂漠の指導者のビジョンが見えてきて、宗教とは何か、なぜそれがどのように始まったのかなどのストーリーが見えてきて、自分なりに理解し納得することができました。学校の中庭でぼーっとしていると、感動や尊敬の気持ちが湧きあがり、見るものすべてが明るく鮮明に見えてきます。初夏のある日には、気がつくと自分の体の周りをものすごい高速で回転している粒子が見えてきて、驚いたこともありました。薄暗い部屋の中ではよく見えていたのですが、あらためて明るい太陽の下ではっきりと見えてとても不思議でした。「ふむ...、粒子が動く余地があるということは…」とすこし物理的な疑問が湧いたので、顔が思い浮かんだ経済学の先生のところに聞きに行くと、「おもしろい質問だねぇ、僕は経済学を専攻する前、じつは素粒子学専門だったんだよ(ノーベル賞を受賞された、かの先生の研究室だったそうです。あとで聞いて驚きました・・・)」と仰って、現在のエネルギーに関する説から説明してくださったこともありました。ある授業の後にふと産業史の先生に「神は存在しますか」と「専門外」の質問をしたことがありましたが、その先生が実はクリスチャンで、興味深い「偶然」もよく起こりました。

1,2年生のころは多くの授業がおもしろいと感じらなかった私でしたが、3年生になるころ「聞けば何かしらかの答えをもっている人に出会える。自由に何を考えたって、何を探求したって、誰からも文句を言われない。変な質問をしても、笑われないし、楽しい話ができたり、何かしらかヒントになることを教えてもらえる。学校ってなんて素晴らしいところなんだろう。天国みたいなところだ」と思いました。

中庭のユリノキという素敵な大木は、それまで私が見ていなかった、見るべき美しい世界があることに気づかせてくれ、人類の進化についても教えてくれました。そのような不思議な体験は、いつでも、一人でボーっとしているとき、一人で散歩しているとき、一人で座っているとき...など一人のときに訪れます。そんな学生時代、私は自由時間を確保したかったため、バイトをほとんどせずお金もほとんどなかったのですが、一人で過ごしたり、散歩したり、読書したり、興味のあるテーマを探求したり、クリエイティブな活動をしたり、インスピレーションをエッセイや詩にしていったりと、自由研究と楽しむ時間を何より大切にしていました。急に絵を描き始めたことがありました。「落書き」と呼んだその絵は、あらゆるしがらみを抜けて休息のため宇宙に帰るピーナッツ(種子)の絵だったり、脳の真ん中に松果体や脳梁、右脳左脳があって、それらを軸にしてさまざまな生物が回転している絵だったり(今見ると曼荼羅のような)、シンボリックなイラストだったりしました(絵の意味が分かったのは10年後でしたが)。親の友達の美術の先生が、「これが落書きだなんて。もったいない。額に入れないと」と、それらの絵を額に入れてくれました。

車に乗っていて、あやうく事故になるところを「声」に助けられたおかげで大事故に至らなかったことも、2度ありました。その現象は、自分以上に自分を知っている自分以外の存在を肯定する以外に、説明できないものでした。そういった自分に起こるさまざまな日々の体験から、自分よりもいろいろなことをしている誰かが、本当に必要としたときには助言や答えを与え気づかせてくれること、それらに守られている感覚、感動や感性があらゆることを教えてくれることなどを、繰り返し体験しました。そういった自分の感性や意識を刺激される体験を通して、見えない世界、世界の背後にある理について、または「自分より大きな何か」について、自分なりの体験を深めて行きました。

「自分より大きな何か」の正体はなにか。
歴史上、これまでたくさんの偉人が人類の存在の意味を探求してきました。哲学や宗教もその問いに何らかの意味づけや解釈を提供してきましたし、自然や環境を克服しようと科学も技術も発達してきました。にも関わらず、「人間がなぜ生きているのか」というもっともシンプルで根源的な問いにすら、明確な答えを得ていないのだから、「人間が知的で存在の頂点である」と思うほうが非合理的で、「より大きな何か」があるほうがどう考えてもよほど自然で、真実に近いのでは、と感じていました。

そのようなわけで、そのころの私は「すべての背後にある理とは何なのか」「人はなぜ生きるのか」「宇宙とは何か」「人類はどこへ行くのか」について、自分の感覚や感性が感じること以外に、答えを探そうとは思いませんでした。その根源的な問いに対する答えが、歴史上の天才や偉人に見つからなかったようであるのに、自分がちょっと考えたところで容易に見つかるわけがないじゃないか〜、と思えたからです。そうこうするうちに、毎日のように降ってくるようになったインスピレーションや気づきをエッセイにまとめ、秋に学園祭が行われるので、そこでイギリスで撮ってきた写真と、問いの空間と、気づきのエッセイをを小冊子にまとめて、展示しよう、と思いつきました。そのとき小冊子にまとめた文章をここに少し引用します。

『人間は彼自身の本質であるときに、自分を喜べるものだ。自分自身の本質に近づこうと手探りするのが人間である。そのために人間は自分という存在を常に問い続けるのであろう。〜略〜 私は心に触れるものから私自身を見ようとする。その心に触れる感動は、生きるものから与えられる。ある人は信仰によって平安をもたらされ、生きがいを得るだろう。私は、生きがいを、人間という興味深いものも含めて、生きる者への興味や感動から得たい。私は自然を理解し、そのものを捉えたいと願う。その生命の成り立ちや法則を、いま、自然意外の意志(ちから)と呼ぶことはしない。生命をたのしみ、よろこぶ。考え、感じ、表現して自分を知り、これらを純化しようと日々を過ごす。それが私にとっての生きる力であり、喜びであり、本質であり、生そのものである(1995.10月)』

この文章を書いたのは1995年、20歳のときだったのですが、私は精神世界、スピリチュアリティ、ニューエイジ、霊的な教えの体系…そういう分野があることを、じつは2004年まで全く知りませんでした。冒頭で家族のバックグラウンドに触れましたが、お盆やお墓参り、初詣などの行事もない家庭環境で育ち、自由な価値観と方針をもつ両親とも、あらゆる封建的な思想、宗教、そのときはやっていたアメリカ発の自己啓発系や精神世界の分野に非常に懐疑的でありましたし、「霊能者」と言われる人々などに触れる機会もなかったのでした。そのおかげか、私自身は、純粋に内側から沸き起こる、感性と直観の世界との交流を楽しみ、自分なりに探究することができました。玉石混交の日本のスピリチュアリティという土壌・環境のなかで、それまで一切外側の影響を受けることなく、迷信や誤解に基づいた教えに触れることなく過ごしてこられたのも、ワンネスのスピリットガイドたちの思慮深い守護と計画によるものだったことに気付いたのは、2004年、Dr.マーガレットと「ワンネス意識」に出会ってからでした。

さて、ここでまた20歳のころに話が戻ります。

そんな私でしたので、3,4年生になり、就職活動の頃には、自分の適職が分からず悩んでいました。私が喜びを感じること、やりがいを感じられることは、社会で役立つとは全く思えませんでした。いつも感動や深遠な気づきを与えてくれる大きな樹を眺めながら、「肉体を維持するために、家や、服や、食べ物を得なければいけない。そのためには働いてお金を得なければいけない。どうして人はこの感動のエネルギーだけで生きていけないのだろう。人間だから、それを形に、ものに変換して生きていかなくちゃいけない。なんて不自由なんだろう...。」本気でそんなふうに思う自分はやっぱり社会不適合なのかも、と思っていました。

そんなある日、家の部屋でボーっとしていると、突然、白い髪の、白いひげを生やして白いローブを着た、杖を持った仙人のようなお爺さんが浜辺の石の上に座っているのが見えました。つづいて、お爺さんの前に5歳くらいの少年が現れ、お爺さんに言います。「僕ね、やりたくないんだよ。」すると、その白髭のお爺さんはやさしく微笑みながらうなづいて、言いました。「少年よ、お前の言うことはよぉく分かる。だが、いまは、世間を学びなさい。人間を、組織を、社会というものを、学びなさい。波にもまれなさい。やりたいことには、いつでも戻ってくることができるのだから…」と。

お爺さんの言うことは、本当にその通り。なぜかすんなり納得できました。ビジョンはそこで終わりました。たしかに今の私はなにも知らない5歳の子供のようなもの。だから、社会に学びに行かなくちゃ。写真やデザインが好きだったのでクリエイティブな仕事を探すのだろう、と思っていたらしい親は、娘がスーツを着て就職活動をすると言ったことに、とても驚いていました。

この後、ストーリーはまだ続くのですが、既に大分長くなりましたので、一旦ここまでにいたします...。

また続きを掲載するまでは、以下に概略を掲載いたしますね。

社会、留学、ヨーロッパ魂の旅と北欧での臨死体験写真展2002
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大学卒業後、数社勤務ののち、1999年から2000年にかけてイギリスへ語学留学。1年コースを修了後、ヨーロッパ諸国を三か月に渡り旅行する。旅行で最初に訪れたフィンランドに滞在中、夏至祭に友人と入った湖が原因で、急性の病気で救急車に運ばれ入院、記憶障害、臨死体験を経験する。その後ヘルシンキの友人宅で静養し、回復したあと、11カ国(フィンランドの後、スウェーデン-チェコ共和国-ハンガリー-オーストリア-イタリア-スイス-フランス-ベルギー-オランダ-ドイツ-イギリス)の旅を続け、多くの不思議な体験や気づきを得る。

再就職と写真展 
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帰国後に就職。仕事帰りに立ち寄った水彩画展で初めて会った、出展者のお爺さんから奨められ、2002年2月から3月の一カ間、銀座のギャラリーで、ヨーロッパで撮りためた写真と見聞録(エッセイ)の展示を行う。同年の秋、20歳から付き合っていた彼と結婚。

離職と自己治癒- 自然療法、波動療法からスピリチュアルヒーリングへ
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その後2003年夏、体調を崩したことをきっかけに、真に自分らしい人生を歩んでよい時期であると思い、退職。薬の副作用が強く、このままでは根本的な治癒に至らないと気づき、食餌療法、アロマセラピー、色、ハーブ、フラワーエッセンスなどを、直感的に取り入れながら独学で自分を癒す。仕事を再開しながら、色彩療法、バイブレーショナルメディスン(波動療法)、スピリチュアルヒーリングへと理解を深め、ある日思いたって瞑想をはじめたところ、ストレスや疲れが完全に消え、森林浴後のようなリフレッシュ感と忘我の心地よさに感動。それ以来毎日瞑想を実践するようになる。

 

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瞑想を実践し始めて数か月経った2004年秋、英国人のヒーラー・ミディアム・マスターティーチャーのマーガレット・ロジャース・ヴァンクープス博士と出会い、生来のカウンセリング、ヒーリング、リーディング、ライティング、ティーチング能力を思い出し、ワンネスのスピリットの世界のメッセージやスピリチュアル意識をシェアし、教えていくようガイダンスを受ける。それ以降、主にマーガレット博士よりカウンセラー、セラピスト、サイキックリーダーのトレーニングを受けながら、スピリットガイドからも直接指導を受け、徹底的な浄化、さまざまな次元を縦横無尽に旅し、数多くの霊的体験、深い気づきと意識の研鑽を積み重ねる。

実践と訓練  
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2005年からは仕事と並行して個人セッション、2006年より瞑想会や勉強会、ワークショップなどを毎月定期的に開催し、多くの実践経験を積む。2007年2月から5月仕事でカリフォルニア州シャスタに滞在する縁を得て現地でもさまざまな体験を楽しみ、瞑想、チャネリングや個人セッションなどの経験を重ねる。7月に退職し、8月よりミニスタープログラムにて研究レポートをまとめ始める。

ミニスター、スクール認定と年間プログラム開講  
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2008年5月、33歳のときに、マーガレット博士が教育担当・理事を務める米国ユニヴァーサル・クライスト・チャーチ(UCC) スクール・オブ・スピリチュアリズムより、日本での初めて(現在は唯一)のミニスタープラクティショナー(ティーチャーの資格)の認定を受ける。また同年9月に、UCCエクゼクティブ3名の推薦を得て、ワンネス コンシャスネス アンド ヒーリング インスティテュートとして公式にスクール認可(アメリカ・カリフォルニア州登録)を受ける。
2009年5月より「年間プログラム(年間を通して学ぶ講座群・カリキュラム)」をスタートし、セラピスト・カウンセラー養成に本格的に着手する。
2010年元旦に娘を出産し、産休にはいる。4月から年間プログラムを再開。
2011年7月スイスの友人を訪れた際、1週間滞在を延長し、スピリットガイドのメッセージと個人セッションを開催、好評を博した。同年12月、年間プログラムと並行して認定ヒーラー・カウンセラーのグループ「エメラルド・リンク」をスタートする。
2012年春分に都内で「あなたのオーラを輝かせるスピリチュアルな休日」イベントを開催し、好評を博す。同年4月よりスピリチュアル誌「トリニティ」ウェブサイト上で、記事執筆、映画レビュー執筆、「運命向上委員会」にてゲスト回答者。
2013年夏にはフィンランドの友人から招待を受け、当地で養成講座や個人セッションを行う予定。



 
 


 



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