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「今」死生観を含むスピリチュアル教育の大切さ

国際スピリチュアリスト教育の専門家  叶礼美です。

 

「あぁ、よかった」とやすらぎに満ちた最期を迎えるためにできることは何でしょう。

死生観について考えてみませんか。

 

 

スピリチュアルケア、最期まで待ちますか?

「出来事、人生の意味を問い、気づき、自己変容を遂げる」ということは、生きていれば、人生の中でいつでも起きうることですが、

誰にでも、この問いが必ず起きうるタイミングというものがあります。

 

 

それは、死が身近になったとき。

 

 

 

この出来事はどんな意味があったのだろう。なぜこうなったのか。自分の人生にはどんな意味があったのだろうか?人生ですべきことをすべてしたのだろうか。

死とは何だろう…そのあとどうなるのだろう?

 

 

これらは、誰もが人生のどこかの時点で直面する、

 

人生、人間という存在にまつわるスピリチュアルな問い

 

と言うことができます。

 

若いころから、このような問いをもつ人もあり、死が身近なものとなって初めて意識する人もいるでしょう。

 

私は、日本にもこのスピリチュアルな問いをもつ人々にしっかりと向き合える、知識と経験を持ったスピリチュアリストが必要だと、常々感じています。

 

海外では、パストラルケアなどと呼ばれ、教会に属している牧師や神父、属していない聖職者などが、死に臨む人へスピリチュアルな面でのケアを行う専門の人が存在します。

 

(※ワンネスインスティテュートは、カリフォルニア州の聖職者・牧師・学校の資格を得ていますので、スピリチュアリズムの観点から、個人・スクールとしてそのようなケア・教育を行うことができます)

 

人生の受容と肯定、気持ちの整理、亡くなった後に体験すること、世界に関わる知識、それらによって得られる魂の安寧のなかに、この世を去ることができたなら。

 

そして周りの人々も、そのように、一生を生きた方を見送るにあたって、見送られる方が、そのような平安の中で彼岸へと移行すること、地上における別れはいっときのものであると捉えられると、そして交流することも可能であり、あちらへ行く人々は肉体を脱ぎ捨てた状態で、本来の元気な状態に戻られるのだということを理解できると、

 

「死」に対する意味合いも、苦悩や悲嘆の感情も、おおいに変化しうるのですね。

 

もちろん、遺された家族や親しい人々が体験する悲しみや苦しみ、寂しさや怒りといった気持ちは、容易く癒されるものでも、受け入れられるものでもありません。

 

それでも、彼岸へ渡った人が、あちらの世界で元気にやっている、穏やかに過ごしていると知ることができたら、いかがでしょうか。

 

たとえ、生前、苦しみの多い困難な人生を歩んだとしても、あちらの世界では、それらの苦しみや困難が癒されて、本来の輝きを取り戻して幸せに過ごしていることが分かったら、

 

遺された人々は、どれだけ救われ、癒されることでしょうか。

 

スピリチュアリストにとって、また霊的なレベルでものごとを知覚する霊媒などにとって、このことは「誰もが知るべきこと」だと思えるのです。

 

(「魂の世界」「死後の世界」「天国」「彼岸」に関する、具体的なケース、事例は、このサイトから登録できるメルマガでも、お話していきます。興味のある方は、ぜひメルマガもご覧くださいね)

 

さて、本題に戻りまして、私は、地上で生きている間の、スピリチュアル・ケアを超えたケアの必要性を感じ、死生観の教育、整備がとても大切であることを痛感しているとともに、

 

こうも思うのです。

 

スピリチュアルな問いとその答えは、人生のまさに「最期」まで、待たなければ得られないものでしょうか?

 

 

「今」死生観を含むスピリチュアル教育の大切さ

 

 

 

この問いに対する私の答えは、

 

「いいえ」です。

 

あのとき答えを知っていたら。あのとき心に従っていたら。あのとき何らかの対処をしていたら。自分の人生にはどんな意味があるのだろう。もっと早く知りたかった。そうしたら、異なる選択をしていたはずだ etc…

 

そのような思いを抱えながらも自分を抑圧して生き続けて、最期を迎えた場合と

 

 

その課題に「いま」取り組んで、この先の人生を、本来のありたい状態へ向かって人生を生き、

 

人生の終わりが近づいてきて「あのとき、気づいてよかった」と「自分が出来るだけのことはした。人生に悔いはない。あぁ、ありがたい」と思えた場合と

 

どちらが、よりやすらぎに満ちた最期といえるでしょう。どちらのようにありたい、と思いますか?

 

「あぁ、よかった」と終わることができるほうだと思います。

 

 

 

地上での転生の終焉、人生の「最期」とは独立した「点」ではなく、

 

今生きている人生の延長上に存在します。

 

それを、今生の「終点」とするならば、その終点へ、今日も私たちは一日ずつ、向かっていると言えるのです。

 

いつか誰にも訪れる「死」。

 

死を迎える、最期を迎えるということはどういうことか。

 

それを理解して生きることにより、生の意味も意義も、より明確に、鮮やかになります。

 

死生観を含むスピリチュアルな教育、霊性の理解とは、「タブー」や「怪しい」ことどころか、

 

生命の基本教育と呼べるものである、と私は確信しています。

 

そしてそのような教育を、

 

人生の様々な選択を重ねて生きる人たちが、比較的早い段階で活かすことができたら。

 

自分という存在に対する意識が、変わります。

 

生きることに対する姿勢が、変わります。

 

そして、生き方が変わります。

 

 

人生にはすべきことがある。理由と目的がある。そのような人生を生きるために与えられた命には、大いなる価値がある。

 

そのように教わることができるとしたら、素晴らしい価値のある教育だと思いませんか。

 

繰り返しますが、スピリチュアルな教育とは、生命の本質に関わる教育です。

 

知ることは力です。生について知ることは、生きる力を得ることです。死について知ることは、死への恐れによって目を曇らせられる必要のない、知を得ることです。

 

誰もが当たり前のこととして、自分という存在の価値、生命の貴さ、人生の在りがたみを知って、

 

誰もが、生きる幸せや喜びを感じられたら。

 

生命への大いなる愛を感じながら、惜しみながら、そのように地上を去ることができたなら…。

 

どうでしょう。世界は大きく変わるはずです。

 

人が一人変わると、その周りの人にもその変化の影響が及びます。その変化は、見えないさざなみとなって、遠くへと伝わっていきます。

 

 

だから、スピリチュアリティの大切さ、本質を、多くの人に知っていただきたいと心から、願っているのです。

 

そして、お読みいただいている皆さんのなかから、「一緒にスピリチュアリティの大切さを語っていこう!認知を広めていきたい!」と思ってくださる方々が手を挙げてくださったなら、とても嬉しいなと思うのです。

 

今回は、深遠なお話になってしまいましたね。

そんな時も、あり…と、軽やかに捉えていただけたら嬉しいです。

 

 

ここまでお読みいただいて、ありがとうございます。

今日も、素敵な一日になりますように。

 

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