国際スピリチュアリスト教育の専門家 叶礼美です。
異国の地で、突然に倒れた私。
入院した私は愛する家族や友人になんとか想いを伝えたくても
思い通りに動かない体で、メモも書けない状態でした。
今回はその続きです。
(前回のお話はこちら)
まばゆい光と安らぎに満たされて…死が意味するもの
それは夜中だったのか、朝だったのか、わかりません。
その時の私は、これ以上ないほどに怖れ、煩悶し、葛藤し、絶望していました。
愛する人々をがっかりさせたくない、悲しませたくない。
せめて一言でも遺書を書きたいのに震えがひどくて一文字も書けない。ペンすら握っていられない。
どうしようもない前後不覚の状態になったあと、どれくらいの時間が経ったのか覚えていませんが、
次に覚えているのは、
私が、いつのまにか、ベッドの上に正座していたことです。
突如として
まばゆい明るい光に囲まれて、
この上もない平和と安らぎと
平穏さに満たされて
いました。
あれほど、痛みと震えと高熱に朦朧としていた自分のものとは思えないほど、
体は軽やかに感じられ、
痛みも苦しさも、ありません。
時が止まったような、穏やかでまばゆい至福のなかで、
3カ月前に亡くなった叔父の最期の姿が見えました。
私は英国にいたので、実際に最期に立ち会ったわけではありません。
でも、そのときの私は、叔父がまさにいま目の前で息を引き取るところを、見ていました。
叔父は、とても穏やかな、平和と安らぎにみちたまばゆい光に、包まれていました。激しい痛みも、苦しみもありません。
そうなのか・・・
ふと私の体に意識を向けると、苦しくて、痛くて、辛くてどうにもならない状態からうってかわって、
あまりに心地よくて、軽くて、至福の感覚に満たされるので、
「この手は自分の手なのだろうか?この体は自分の体なのだろうか?」
と思いながら、手のひら、手の甲をしげしげと眺めてしまうほど…。
そして、ふかい気づきが訪れました。
「ああ、なんて安らかなのだろう。死とは、こんなにも穏やかで、光に満ちて、優しいものなのだ」…と。
それは、「死」の意味が私の中で完全に変わった瞬間でした。
「死とは、恐れるべきものではない」
叔父も、死の瞬間、苦しみから解き放たれて、このまばゆい平安の中におかれていたのだと。
そして多くのことは取るに足らないことで、大事なのは「愛」なのだ、と・・・
そう、強く思われたのでした。
このときから私にとって「死」とは、いずれ来る「解放と圧倒的な安らぎ」を意味するようになったのです。
引き続き、不思議な体験について…お話しますね。
そう、生命の不思議について。
死を意識して分かった大切なこと
死とは、決して恐れるものではない。
まばゆい光に包まれた空間で、自分のものとは思えないくらい、軽やかな体。いつのまにか天国に連れていかれたのか?と思えたほどの穏やかさと明晰さ。その光の中で、喜びに満たされていたのです。
なんて心地よいんだろう。
あんなに苦痛であった体に、不快感のかけらすら感じない…
全てがこれでいい…
私は、なぜだか知らないうちに、ベッドの上に正座していました。
前の号に書きましたが、あまりに体が楽なので、空気のように軽いので、「自分の体?自分の手?」といった感じで、手のひらや甲をかえしては、しげしげと眺めてしまうほどでした。
そのときに圧倒的な強さをもって感じられたのは、資格や仕事など…は、取るに足らないもの、ということ。
本当に人生で大切なものは、
愛
という気付き。
家族や友達を大切に思う気持ち。
一緒に生きたいと思う気持ち。
時を共に過ごし、幸せを分かち合いたい人たち。
そのような人々に彩られた
人生を想うとき、
溢れだす愛。
限りある命を意識するとき、それら以外のものごとの意味なり意義が「消えうせる」そのような感覚を感じ、
本当に大切なものだけが、圧倒的な実感をもって感じられる。
制限があると、つまり限りがあるとき人は、「何かを切り捨てる」ことで、大切なものを守ろう、優先しよう、とします。
体力に限りがあれば、体力を温存して、より大事なこと―最優先は、生命を維持すること―に、その体力を注ごうとします。
時間に限りがあれば、優先しないでいいことは後に回し、時間を大切にするために、本当に大切なことに時間を割こうとするでしょう。
このときの私には、人生における本当に大切なもの、が鮮やかに感じられました。
そして、
大切な家族を亡くしたばかりの人たちに、もう一度壊滅的なショックを与えるわけには、悲しませるわけには、いかない。
何故止めなかったのか、何故誘ったのか。自責の念を持ち続ける人生、後悔させる人生を送らせてしまうわけにはいかない。
なぜなら私にとって、
彼らは大切な人たちだから。
そのようなわけで、そのときの私にとって、圧倒的に重要でかけがえのない人生の宝ものとは、仕事でも資格でも能力でもなく、ただただ
愛
のみである、と思われたのでした。
それが私の「死に臨む体験」から得た、大きな学びでした。
この後、どれくらい時間が経ったのか、また分からなくなってしまったのですが
このあと、あの体験が嘘だったかのように、体がつらい状態に戻ってしまい、全身がくがくと震えが止まらず、熱は42度の体温計を振り切ったまま。
天国のような時間はいつの間にか過ぎ去っていたのでした。
そして今度は、「言葉が出てこない」「記憶喪失」という出来事が待っていました。
いうなれば25歳にして、軽い認知症を先に体験した感じです。
なんて盛りだくさんなのでしょう。
夏至は誰にとっても、1年の中で大きな転換期となることが多い時期ですが、私にとっても、そうだったようでした。
これは実は結構危なかったようで、脳生理学者の先生にこのお話をしたところ、「後遺症が残らなくて本当に良かったですね…!」と言われました。
後遺症なく復活できたからこそ、こうしてあなたにお話できるというものです。
次回は、その記憶喪失と言語障害についてお話しますね。
もしよろしければ、こちらからご覧くださいね。
生きているって本当に素晴らしいことですね。
普段の生活がいかに有難いことか分かりますね。
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